今回は日産スタジアムの芝生を管理する「グリーンキーパー」柴田智之氏に話を聞いた。
日産スタジアムの、美しく繁り、選手からの評価も高い芝――今回はその裏話から、日本のスタジアムの今まで、これからに切り込む。
(聞き手・有川久志 編集・夏目幸明)
1965年生まれ、横浜市出身。東京農業大学を卒業後、ゴルフコース運営会社に就職。その後、1997年に横浜国際総合競技場(2005年から「日産スタジアム」の呼称)の開場準備にあわせて、同スタジアムのグリーンキーパーへと転職。それ以来、20年以上も同スタジアムおよび新横浜公園に勤めている。2002FIFAワールドカップ決勝戦のピッチ作りの責任者の一人。
芝生は、人生と同じで答えが出ない
―実は私の同僚が、横浜市役所が行った「芝生体験ツアー」に家族で参加してコラムを書きました。なかでも柴田さんが登壇された部分が興味深くて、あらためて取材させていただこうと考えたんですね。
柴田:ありがとうございます。
―日産スタジアムの芝生は国内随一、と評価するアスリートが多いようですが、それについては?
柴田:高い評価をいただけるのは嬉しいんですが、私が「いい芝生を育てている」といった言い方をされると少し違和感があります。芝生は生き物だから、適切な環境を整えることができれば自分自身の力で育っていきます。
例えば私が芝生を見て「喉が乾いているのかな?」と感じたら水を撒く。でも「いま水を撒いたら芝生が水を探さなくなるな」と思ったら水は撒きません。芝生は水を探そうとして根っこを伸ばし、強くなるから、水をあげすぎると弱い芝生になってしまうんです。
ようするに、私は芝生にとって最もよい環境を整えているだけなんですよ。
―まさに「職人」のコメントですね。では柴田さんがグリーンキーパーになるまでの道のりをお教えください。
柴田:お恥ずかしい話ばかりです。農業大学を卒業する時、「ネクタイを締めて働く職場は性分に合わないかな」と思いながら就職先を探すと、ゴルフ場からの求人案内が目にとまりました。
これを見て「ゴルフ場なら芝の管理だろう」と、とくに欲もなく受けに行ったら内定をいただけたんです。その企業はゴルフ場の運営だけでなく、ゴルフ会員権の売買やレストランの運営も行っている大手でした。
そんななか、入社後予想通り"コース課"に配属されたから、私は「よし、ネクタイを締めなくていいぞ」と(笑)。
―ご自分の性分を大切にされたんですね。学生時代に芝の育成について勉強されたのですか?
柴田:いえ、まったく。
―では、そこから......?
柴田:1年目は先輩に教わった通り、グリーンを刈って、肥料を撒いていました。若い社員が多かったからか、2年目の途中からは芝生の管理責任者を任されました。当初は「この時期に刈り込んで、ここで肥料を撒いて......」と先輩がやってきたことを単純に受け継いだんですが、3年目の春に転機があったんです。
朝、コースを巡回している時にグリーンを見たら、明らかにその状態が違いました。芝生がピーンと立って、寝ていない。上から見ると下の土が見えるような状態だったんです。
―それが「いい芝生」なんですか?
柴田:最高です。寝ている芝生にボールを転がすと、葉っぱの幅が広い場所で摩擦抵抗を受け、ボールがそれたり、転がらなくなったりします。
でも立っている芝生は"ふんわりした針"のような状態だから、ボールの圧力を芝の先端の一点で受けるんです。この状態だとボールがよく転がります。
全米オープンのオーガスタの時に、選りすぐりのプロがボールをグリーンから出してしまうことがありますよね。あれは芝生が理想的で、ボールの間に余計な摩擦抵抗がないからなんですよ。
―なるほど、普段、トッププロでもそこまで状態がいい芝生でプレーしないから感覚が狂うんですね。
柴田:ええ。たまたまできた理想の芝生を見て、私は鳥肌が立ちました。「俺、やったぞ!」と。ところが数週間後、なぜか芝生は元の寝ている状態に戻ってしまったんです。これは殴られたようなショックでした。
芝生は生き物だから、正直な反応を返しているだけ。だったら俺、何をやっていたんだろう?と。そこで初めて、僕は芝生と向き合って、何をすべきか自分で考えるようになったんです。
―人に歴史ありですね。その後、別のゴルフ場に移って、6年目にこちらのスタジアムにいらしていますね。
柴田:このあたりも失敗談ばかりです。「もっと芝生と向き合いたいから経験者がいる会社に移ろう」と転職したら、今度は職人肌の先輩と意見が合わずぶつかってしまったり......。ただ、これがいい経験になったんです。
芝生は何年やっても答えが出ません。芝生の管理に正解はないんです。そんななか私は、いろんな失敗を経験して「まだまだだなと思い続けることが大切なのかな」と思うようになりました。
着任したスタジアムは「日本一過酷な環境」だった
―柴田さんは横浜出身なんですよね。そういったこともあり日産スタジアムに?
柴田:はい。1997年6月、ちょうどスタジアム(当時は横浜国際総合競技場)の開場に向けて芝生を張るタイミングでここにきて、今年で22年目になります。その間、異動もなく、ずっとこちらで芝生の管理を担当しています。
―もうお一人、同僚がいらっしゃるとか。
柴田:私と同い年で、ゴルフ場で一緒に働いていた人物です。日産スタジアムは試合が多く、完成から数年、私もほとんど休みがないほどの状態でした。
そこで「これはもう1人採用しないといけない」となって、私に「知り合いで誰かいないか」と打診されたんです。この時に、元々スポーツ施設の芝の管理をやってみたいと考えていた彼に来てもらいました。
―ゴルフ場から日産スタジアムにきて戸惑ったことはありますか?
柴田:ゴルフ場の芝生は、一言でいえば「大切に守られた芝生」です。ゴルフは紳士のスポーツと言うだけのこともあり、守るべきマナーが多く、お客さんが芝生を傷める使い方をしたら、キャディーさんが「グリーンの上ではスパイクを引きずらないでください」などと注意してくれます。しかも、クラブで打った後には必ず砂を入れてくれますよね。
でも、スタジアムでその感覚はまったく通用しません。例えばハンマー投げのハンマーは芝生にめり込みます。7kgの球がズコン!と芝生の中に表面が見えなくなるほど埋まり、芝生が飛び散るんです。
また、選手が走った時に「すいません、芝生いたむので」とは言えません。スタジアムに来てすぐ「なるほど、ここの芝生は荒らされてナンボなんだ」と感じました。
―1~2年目は苦労も多かったとか。
柴田:反省ばかりです。まず、芝生を守ろうと「必要以上に使ってくれるな」と言うようになってしまいました。いま、日本の芝生のスタジアムはだいたい年間60~80日程度稼働しますが、当初のこのスタジアムは45~50日程度しか稼働していませんでした。
この理由の一つがこのスタジアムの環境にあります。芝生を育てるうえで、決して適した環境とは言えないのです。
―というと?
柴田:人工地盤※だから芝が育ちにくいんです。
※隣を流れる鶴見川が増水した際に、スタジアム下に水を逃がすため、高床構造になっている。
日産スタジアムのピッチの下は高床構造で、コンクリート柱で支えられています。その影響で地中の温度が安定しないのです。
例えば桜は、今日は5度、今日は6度......と気温を合計して、ある数字に達すると開花し始めます。これと同様に、芝生も地熱が積算されていくと育っていきます。
ところが日産スタジアムの場合、下が熱しやすく冷めやすいコンクリートと空洞だから、すぐ温度が下がってしまうんです。芝生が育ちにくいだけでなく、凍り付いてしまうことさえあります。
対策として「ヒーティング」という温水パイプが入っていますが、やみくもに使えばいい訳ではありません。
温度を上げると、芝生は「あ、春が来た」と動き出します。葉っぱも根っこも冬の間になくなっているから、秋に蓄えた芝生自身の貯蔵養分を消費して新しい根っこや葉っぱを生やすんです。しかし実際に外に出て「あれ、まだ冬じゃん」とわかると、芝生は「ダメだ、これ」と成長をやめてしまいます。
そして、これを何度か繰り返すと体力を失い、本当に春が来た時に動けなくなってしまうんです。
日産スタジアムの環境は、日本で最も芝生を育てにくいと言っていいと思います。もちろん、芝生が育たないドーム型のスタジアムのなかには、年に何度か芝生を張り替えて使うところもあるので、これらは除いてですが。
―柴田さんにとっても過酷な環境ですね。
柴田:1年目のシーズンが終わったあと、チーム関係者がJリーグ関係者やチェアマンを連れて市長を表敬訪問をした時に「横浜のスタジアムは素晴らしいけど、芝生だけはどうにかなりませんか」という話になってしまいました。
まだW杯の決勝戦も決まっておらず、埼玉と争っている状況だったから「心配ですね」「これで決勝戦に手を挙げられるんでしょうか?」とも言われました。
「どんどん使え!」ではあっという間に芝生はなくなる
柴田:でもここから、周囲の方に助けられたんです。当時の市長は元土木業の方で、我々が直面した問題への理解がありました。そこで「ダメだったら全面張り替えしてもいい」くらいのことを言っていただき、大々的に手を加えることができたんです。
横浜市の職員も含め、みんなが「今はとにかく芝生を守らなきゃいけない時期だ」と考えてくださったことが大きかったですね。
―周囲が芝生に対する理解を示してくれたから事態が好転したのでしょうか。
柴田:まさにそうです。当時は場長には元NHKのアナウンサーをされていた西田善夫氏が就任されていて、彼が広告塔になって、様々な競技団体に「ぜひうちを使ってください」と伝えていました。
その彼が私に「柴田君、使う度に芝生がめくれたり飛んだりして、みんなハラハラしているんだよ。たまには安心して試合を見れる芝生を作ってくれないかな」と仰ったんです。
これを聞いて私は「じゃあ、その芝生を作る時間をいただけますか」と言ったらしいんですね。"らしい"と言うのは私に覚えがないからです。
でもこの時に場長がハッとしてくれたようで、あとで「そうか、僕は芝生にまったく時間を与えていなかったんだ、と気付いた」と振り返っていました。
―初めて芝生の立場で物事を考えたのでしょうね。
柴田:そこから彼は180度方向転換し、先頭を切って「芝生は生き物、今はW杯に向けて大切にしなければいけない時期だ」とおっしゃっていただけました。
―そこで質問なんですが、今後、日本各地に様々なスタジアムができていくなか、我々は芝生とどう向き合っていったらよいのでしょうか?言い方は悪いのですが、人工芝と天然芝の区別がつかない人すら多いと思うのですが。
柴田:多いですね。だからスタジアムをつくる時は、もっと芝生に対しての理解も促進していく必要があると思います。本来スタジアムの芝生は「使うための芝生」ですが、何の規制やルールもなく「どんどん使え!」ではあっという間に芝生はなくなってしまいます。
ところが、私が見ると――(国体など様々な機会があって)スタジアムを作らざるを得なくなって、その時はなんとか乗り越えたけどその後はどうしようもないよね、という管理体制のスタジアムが多いと感じます。
―そうなんですか。
柴田:あくまで私見ですが、日本人は設備を作るお金は出すものの、そのあとの維持・管理のためのお金はなかなか出てこないと感じます。
また、こういう使い方ならいいけど、こういう使い方をしたら芝生がなくなっちゃう、といった理解をせず「あるものはせっかくだから使おう!」となりがちです。ここを粘り強く理解を求めるのが、私の仕事の中でも重要な部分でした。
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