【第4回】スタジアムではぐくまれる「川崎愛」~ なぜ「富士通スタジアム川崎」はこれほど市民に愛されるのか ~ (4/4)
【第4回】スタジアムではぐくまれる「川崎愛」~ なぜ「富士通スタジアム川崎」はこれほど市民に愛されるのか ~ (4/4)

【第4回】スタジアムではぐくまれる「川崎愛」~ なぜ「富士通スタジアム川崎」はこれほど市民に愛されるのか ~ (4/4)

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川崎フロンターレが、川崎球場跡地を含む富士見公園南側の指定管理者になって以降、市民の心を鷲づかみにするイベントの数々を仕掛けている。Xリーグ(アメフト)のメイン会場である『富士通スタジアム川崎』の観客数も急増中だ。

同スタジアムの支配人で、今回の件の仕掛け人でもある田中育郎氏に話を聞くと、彼の情熱の源泉が、スポーツの歴史、川崎の歴史に対するリスペクトで、多くの協力者が彼の思いに共鳴していることがわかった。
(聞き手・有川久志 編集・夏目幸明)

第3回はこちらから

富士通スタジアム川崎
川崎市民の憩いの場として親しまれている富士見公園の中にある川崎富士見球技場。2015年4月に富士通が命名権を取得したことで『富士通スタジアム川崎』となっている。
ホームページ:http://kawasaki-fujimi.com/

田中 育郎 氏
1968年、神奈川県川崎市生まれ。帝京大学、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科を卒業。凸版印刷(株)を経て(株)東京ヴェルディでは営業本部長等をつとめ、2010年10月より(株)川崎フロンターレへ。現在は富士通スタジアム川崎の支配人をつとめる。大学ではラクロス部に所属。社会人でも10年以上『東京ラクロスクラブ』に所属。川崎市在住。

川崎球場
川崎球場 (画像:Yasuoyamada)

川崎球場は、市民の「記憶遺産」かもしれない

―田中さんは2017年、2018年に「かわさき球場、今から見るか?昔から見るか?」というイベントを開催されています。なぜ川崎球場に関するイベントも開催されたのでしょうか?

田中:きっかけは2015年の10月19日にあったんです。なんでもない平日、仕事していたら人がぽつぽつ集まり始めました。

私はすぐに「あぁ」とわかりましたよ。そして、いらした方に「もしかして10月19日だからですか?」と聞いたら、みんなそうだとおっしゃるんです。

※1988年10月19日、川崎球場で、のちに「10.19」と呼ばれる伝説的な名勝負が行われた。近鉄バファローズはダブルヘッダー2試合に勝てば優勝、1試合でも引き分ければ優勝を逃す状況。一方、迎えるロッテオリオンズは近鉄に大きく負け越しており、目の前での優勝を阻止すべく立ちはだかった。試合は、テレビ局が当日の予定を変更して生中継するほどの熱戦となった。

すると、次第に来場者がどんどん増えていったんで、私が即席のスタジアムツアーを実施したんです。この時「ちゃんと開催すれば、このイベント、多くの人が来てくれる」と確信しました。

実際に、イベントの告知をすると、ネットでも「あの懐かしい肉うどん(川崎球場の名物)が食べられるの!?」などと話題になったんですよ。

一方で「なんでフロンターレがこんなマニアックなイベントをやるの?」とか「田中さんってフロンターレの人なのに、なんであんなに野球に熱いんだ?」とも言われましたが(笑)。

― イベントには、オリオンズ、バファローズのOBだけでなく、かつて川崎球場をフランチャイズにしていた大洋ホエールズのOBも招かれていましたね。川崎球場の内野フィールドを再現して当時の場所にベースを設置して、自由にキャッチボールができるスペースもあるなんて、非常に粋な演出だと思います。

田中:私はこの地の歴史は川崎市の資産でもある、と感じています。川崎球場は、80年代、ロッテオリオンズが使っていた頃「ボロい」「汚い」「怖い」と言われもしました。だから、残念なことに負の遺産のように扱われることもあります。

しかし、私にとっては幼少時に父親と観戦に来た大切な思い出の場所です。同じようにこの場所に思い入れを持っている方もたくさんいらっしゃるはずです。

10.19のバファローズファンの皆さんのように、川崎と関係なくても思い入れをお持ちの方もいらっしゃいます。だから「今のスタジアムのためにも歴史も大切にしたい」という思いがあったんです。

利用者もプレーヤーも同じだと思います。サッカースクールの子どもたちも、アメリカンフットボールの選手も、何も知らずフィールドに立つより、1951年から続く輝かしい歴史の上に立っているんだ、という意識があったほうが幸せであろう、と。

『10.19を中心に川崎球場の歴史を振り返る』の様子
『10.19を中心に川崎球場の歴史を振り返る』の様子
©KAWASAKI FRONTALE

― 川崎球場のバックネットや、阪神タイガースの佐野選手がぶつかったフェンスも残っていますね。

※1977年4月29日、川崎球場で行われた阪神タイガース対大洋ホエールズの試合で、阪神が1点リードした9回裏1死1塁、レフトを守っていた阪神・佐野仙好選手は大飛球を追い好捕。しかし、当時コンクリートがむき出しだったフェンスに激突し、頭蓋骨を陥没骨折してしまう。その後、1塁ランナーがタッチアップしてホームイン、史上唯一、1塁ランナーがホームに生還した犠飛となり、のちに「試合中、選手の生命に関わる負傷が生じた場合は、審判員はタイムを宣告できる」ルールができた。なお佐野選手はその後も活躍し、85年にはタイガースの日本一に貢献している。

田中:残っているのは幸運だったんです。壊す予定だったらしいんですが、予算が足らず壊せなかった、と。これは野球の神様のお導きかな、と思うしかありません(笑)。

日本では、施設をすぐにスクラップアンドビルドしてしまいます。更地にして、ゼロからスタートさせ、全部消してしまう。たまに残っていても、プレートがある程度です。これは少し残念な慣習ですよね。

― アメリカのスタジアムでは、わざと残すことがあります。

田中:最新のスタンドと最新の人工芝があって綺麗なんですが、見るとなぜか、昔のネットが残っている(笑)。

― ここにアルティメットの日本選手権の写真がありますが、選手がジャンプをしているのも、野球のフェンスの前。何とも言えない味がありますよね。もし指定管理者が田中さんやフロンターレさんでなければ、あのフェンスに光をあてようなんて思いませんよね。

田中:川崎を愛しているからこそ、これらを守らなきゃいけないと思っているんです。

指定管理者をつとめる人間にとって大切なのは「昔、父観につれてきてもらった」といった個人的な体験なのかもしれません。地域愛や、スポーツの応援って思い入れの部分が大きいじゃないですか。だから、お客様とイベント関係者が共感の輪で繋がっている必要があるんです。

実際、川崎球場のイベントにいらしたお客様に話を聞くと、多くの方がうれしそうに「いかにここに思い入れがあるか」を私に語るんですよ。

当時、この球場はヤジを飛ばすちょっと怖いおじさんたちがいて、外野スタンドは基本的に空いていて、プロ野球の『珍プレー好プレー』の番組でも揶揄されるほどでした。

しかし、そんな"昭和"なシーンも、今は大切な思い出なんです。

例えば佐野選手の件も「その時、救急車はどこから入ってきたんですか」と聞くと「ああ、そこから」と覚えている方が何人もいました。あの試合を目撃しているだけでも凄い事なのに。

さらに、川崎市サッカー協会の方が「キミは大事なエピソードを1つ知らないよ」とおっしゃるんです。当時は球場でもビールが瓶で飲めた。そんななか、観客がジャイアンツの柴田勲選手にビール瓶を投げ、肩に当ててしまったことがあるそうなんです。

この時は場内もさすがに静まりかえって、試合も30分以上中断したらしい。ところが、柴田選手はその後も試合に出続けたというんです。どこまで本当の話なのか、他の資料を調べているのですが......。

― "昭和"がどんな時代だったかを物語るエピソードですね。

田中: 選手のワイルド過ぎるエピソードもあります。

大洋ホエールズには、現役時代『ポパイ』と呼ばれていた長田幸雄さんというOBがいらっしゃいます。その後、ポパイという釜飯屋を経営しているから、ご存じの方も多いかもしれません。この長田さんが、観客のヤジに怒ってフェンスの金網を登ったことがあるそうなのです(笑)。

お店に行くと、彼が川崎球場でホームランを打って、対戦相手だったジャイアンツの長嶋さんの横を通り過ぎる写真が飾られてます。それが、すごい良い写真なんですよね。

― そんな記憶が川崎への愛情に変わっている中高年はたくさんいらっしゃるでしょうね。

田中:ええ。高校野球も1977年まで神奈川県大会の決勝は川崎球場で行われていました。当時からスーパースターだった原辰徳さんが、1976年にここで戦った時の写真も見たことがあります。もう、満員どころではなく人でぎゅうぎゅうでした。

― 考えてみれば、川崎市民だけでなく日本中の野球ファンが、在りし日の川崎球場を見ていたんですよね。そういえば、王貞治選手がいつ節目の700号ホームランを打つか日本中が注目をしていた時も......。

田中:ここで打ったんです。張本選手の3000本安打も。この2つの大記録の記念プレートはここ(特設ギャラリー)に展示してありますので、いつでも見ることが可能です。

またスタルヒンの200勝もここです。村田選手が200勝を挙げられなかったのもここです。

実はヤンキースも川崎球場で練習しているんですよ。ワールドシリーズの直後に来日して、ミッキー・マントルやヨギ・ベラなどの名選手が羽田空港に着いたあと、ここで調整をしたらしいんです。

誰にも告知はしなかったらしいんですが、それでも話が漏れたのかファンが3000人集まって、メジャーリーガーたちはちゃんとファンサービスを行ったそうです。実は神奈川新聞にそんな記事が残っていて......(以降、野球の話が数十分)

スタルヒン、小松、ヨギ・ベラに寺尾聰......その「川崎遺産」とは

― 川崎球場のイベントでは、ギャラリーにも貴重な品がたくさんありましたね。

田中: これ、我々が新聞記事を買って用意したほかは、ほとんど一般の方の持ち寄りだからすごいですよね。

― 中日ドラゴンズのエース・小松辰雄さんが履いたスパイクも展示されていましたね。

田中:1985年に川崎球場でオールスターゲームが行われ、小松選手が登板しました。だから「このスパイクには当時の川崎球場の土がついているんですよ」とわざわざ名古屋の方が新幹線でお持ちくださったんです。

ほかにも、オリオンズとビックリマンチョコがコラボしておまけにつけた選手の似顔絵をお持ちいただいた方もいます。当時のオリオンズには名選手もいらっしゃったのですが......

色々な方に話を聞くと「子供たち、おまけには興味なかったかも」とおっしゃる方もいらっしゃいました。しかし、そんななかでも選手を愛していたファンは、強い思い入れをお持ちだったのでしょう。

実は私自身も、1960年のプロ野球オールスターゲームのポスターがここの倉庫に眠っていたのを見つけているんですよ。暗い部屋に55年間......

― 忘れさられてた......

田中:はい。それを蘇らせました。ある日「倉庫に相当古い本が置いてあったよ」と聞いて行ってみると、写真などの資料が収められていて、見れば外野スタンドをつくった当時の「川崎スタヂアム」と書かれた写真など、貴重なものがいっぱい入っていたんです。

同時に、感動的なものも見つけました。職員の方がスタジアムの様子を何枚も撮影し、写真を繋げて保存していたんです。パノラマ写真がない時代だから、こうするしかなかったんでしょう。

私はこれを見て、当時の職員の方が「なんとか記録に残そう」と強い思いを持っていたのだと感じました。

― スタジアムは、そんな名もなき方の努力によって輝いているんですね。

田中:本当にそう思います。私はできることなら、この"パノラマ写真"を撮影した職員の方に「その思い、私が引き継ぎましたよ」とお伝えしたいですね。

― どこかでこの活動をご覧になって、喜んでおられたらいいですね。

田中: 実際、こういった活動を続けていると、年配の方から評価されることもあるんです。

以前、近所に住んでいるというおじい様がいらっしゃって、笑いながら「お前、野球のこと知った風な口をきいているけど、なめんじゃねえぞ」とおっしゃるんです。

私が焦って「いえ、まったくなめてないです!むしろお話を聞かせて下さい」と言ったら「スタルヒンのキャッチボールを横で見てキャッキャキャッキャ言ってたら、スタルヒンは笑顔を見せてくれた」といったお話をして下さいました。

― そのおじい様、きっとすごくうれしかったんですよ。田中さんの活動が。

田中: だったらいいですね。さらに、川崎球場は野球だけでなく、映画やドラマにも度々登場しています。「探偵物語」とか「Gメン」とか......。

人気ドラマの「西部警察」では、銃撃戦で寺尾聰さんがめっためったに撃たれ、最後たばこ吸いながら歩いていく、という信じられないシーンもありました。

この川崎の文化財をなんとか遺産登録ができないか市の方に聞いたこともあります。熱心なファンの方々が「外野フェンスを残そうという署名活動」を検討している、という話も耳に入って来ています。

― こういうものは、お父さん、お母さんが川崎球場のことを覚えているうちにしっかり保存してもらわないといけませんよね。

田中: ええ。昔の記憶は今に繋がっていて、これを大切にすれば、今の記憶も未来に繋がっていきますから。

無償の愛が、スタジアムを盛り上げる

― 最後に、今後はどんな活動を行っていく予定ですか?

田中: 今も毎月、新しいイベントを実施し続けています。障がい者のイベント、合同防災訓練......。町内会の皆さんと協働で毎年開催しており、普段ここを練習場所にしているアメフトチーム、アサヒビールシルバースターさんにもお手伝いいただいています。

我々を通じて地域と接点を持つ橋渡しになれば、チームにとっても財産になるはずですからね。

― 最後に感想を言わせていただくと、やはり、どれだけ市やフロンターレや富士通さんのバックアップがあっても、田中さんという個人の強い思い入れがなければ、今の盛り上がりはなかったのかな、と思うんですが。

田中:であればうれしいですね(笑)。富士通スタジアム川崎は、フロンターレアンダー18の練習場であり、かつフロンターレのサッカースクールの会場にもなっていますが、トップチームが使っているわけではありません。

しかし、そんなフロンターレが川崎の歴史を大切にし、地域に貢献し、アメフトやラクロスなどほかの競技も盛り上げていく。その結果、多くの市民の方に「フロンターレ、どんだけ懐広いんだよ」「フロンターレはそこまでやるのか」と思ってもらえればうれしいですね。

― やはり「それをやるなら適任は俺だ!」という思いもおありなのでは?

田中:ええ、思っています(笑)。

実を言うと最初はフロンターレサポーターに働きかけ、なんとか富士通スタジアム川崎に来てもらおうとすることに対し申し訳なさを感じていた部分もあったんです。

しかしフロンターレサポーターは「何言ってんだよ。俺たちは富士通スタジアム川崎に共感して、楽しくて、好きで来てるんだから良いじゃん」と言ってくれたんです。これで安心しました。

― 今は輪が広がりつつありますよね。

田中:ええ。富士通スタジアム川崎には僕の他にもアイデア豊富なスタッフが何人もいます。

例えば自転車が好きなスタッフがいるのですが、彼は好きが高じて一流のライダーに掛け合い、子ども向けのキッズバイクイベントを開催しています。また、近藤真彦さんの『イイコトチャレンジ』というランニングイベントも誘致しました。

こうして輪が広がっていけば、次第にもっと大きなことを起こしていけると思います。

― では最後に伺いたいのですが、田中さんの行動力の原点は何なのでしょうか? 川崎への愛情、フロンターレへの思い、いろいろあると思うのですが。

田中:私を支えているのは、仲間達の存在かもしれません。

― というと?

田中:現在の事業は、まだ構想段階だった2014年、フロンターレの現場スタッフやサポーターの皆さんに「この場所でこんなこと考えてるんだけど......」とパワーポイントで伝えることから始めています。すると、みんなが口々に「面白い!」と言ってくれたんです。

その瞬間の「ああ、これならいける!」という思いが私の根底にあるのだと思います。

― スタジアムが、思いと思いで繋がる場所だと理解できました。田中さん、ありがとうございました!

下付きテキスト
インタビュー後に記念撮影
(左から田中支配人、有川編集長)

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